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蒲生氏郷(がもう うじさと)は弘治2年(1556年)滋賀県蒲生郡日野町に、六万石の大名蒲生賢秀の嫡男として生まれました。永禄11年(1568年)蒲生賢秀は織田信長に降り、氏郷(幼名鶴千代)は人質として信長に仕えますが、信長は一目で鶴千代の非凡さを見抜き、翌永禄12年にはわが娘冬姫を氏郷に与え、若年ながら武将の列に加えたといわれています。当時、文武兼備の武将として有名な稲葉一鉄は「この子の行く末は百万の将たるべし」と賞賛したと伝えられています。
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天正12年(1584年)秀吉により松ヶ島十二万石に封じられた氏郷は、天正16年、四五百(よいほ)の森に城を築き、この地を「松阪」と名付けました。氏郷は城下町づくりに当たり、郷里日野町や伊勢の大湊などから商人を招き、商業による町の繁栄に意を注ぎ、後の“商都まつさか”の基を築きました。
しかし、氏郷の松阪在住はわずか2年で、天正18年には会津へ移封となり、九十二万石の大守となっています。わずか8年の間に六万石から九十二万石に昇進するという例は他に類をみないことで、氏郷が当時どれほどの大器とみなされていたかがよくわかります。
優れた武人であり、政治家であった氏郷は、また当代一流の文化人でもあり、特に茶の湯は千利休の高弟として知られるところで、千利休は氏郷を「文武二道の御大将にて、日本において一人、二人の御大名」と評しています。
しかし、惜しいことに、文禄4年(1595年)「限りあれば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山風」の辞世を残し、氏郷は40歳をもって、その生涯を終えています。秀吉が世を去る3年前のことです。 |
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