
本居宣長(もとおり のりなが)は、享保15年(1730)松阪本町の小津家に生まれました。小津家は宣長から4代前の七右衛門の代に江戸店もちの木綿商となり、小津党の中でも最も有力な「富る家」となりました。
しかし、宣長が家督を継ぐころには店も窮地に陥り、ついには破産してしまいます。
このため、宣長の将来を案じた母かつは宣長を医師にする決心をします。母の志を受け、宣長は23歳のとき京都へ上り、28歳までの5年半の間に、医学を修めるかたわら、古典、和歌等についても勉強しています。姓を本居、名を宣長、字を春庵と改めたのもこのころで、後年の学業の基礎はこの時期に築かれたといえます。
しかし、宣長は勉強いちずという訳でもなく、友人たちと四季折々の京の町で大いに青春をおう歌したようでもあります。
京都遊学を終え、帰郷した宣長は魚町に町医を開業しました。
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宝暦13年(1763)、宣長は、松阪日野町の旅館「新上屋」に宿泊中の、かねてより尊敬していた賀茂真淵との対面を遂げますが、この会見中、真淵に古事記研究の志を告げ、真淵もこれを激励しています。これが後に「松阪の一夜」として知られるもので、同年末に宣長は真淵に入門しています。
翌明和元年(1764)、宣長35歳のときに古事記の研究に着手し、35年の歳月をかけて、寛政10年(1798)69歳で全44巻の「古事記伝」を完成させています。古事記伝は古事記の精密な解釈の書で、古代史研究の大成として、かつてだれもなし得なかった独創的な研究でした。
本居宣長は、古事記伝のほかにもいくつかの著作を残していますが、「源氏物語玉の小櫛」の中で、人間のありのままの素直な情感を「もののあわれ」と名づけ、このもののあわれを表現することこそが文学の生命だと説いています。こうした宣長の文学観は、形式を重んじる武家社会に対し、自然で明るい精神にあこがれた宣長の思想を対照的に際立たせるもので、宣長を古事記研究にかりたてたのも、そうした素朴で自然な古代人の心へのつきない想いによるものかも知れません。
しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山桜花
61歳の自画像に自ら認めたこの歌は、そうした宣長の精神を象徴するものとしてあまりにも有名です。また、宣長の桜を歌った歌集「枕の山」には300余首の和歌がのせられていますが、
桜花ふかきいろとも見えなくにちしほにそめるわがこころかな
など、宣長の桜に対する愛着の探さを改めて思い知らされます。
宣長は、天明2年(1782)53歳のときに2階の物置を改造し、四畳半の簡素な書斎をつくっています。この小部屋が「鈴屋」で、宣長は研究に疲れると36個の小鈴を連ねた柱掛鈴を振って、その音を楽しみました。
東は陸奥の国から、西は日向の国まで、宣長の弟子は489人にものぼりました。享和元年(1801)72歳で生涯を閉じた宣長は、遺言により山室山の奥墓に葬られています。墓碑には、生前に自ら書き残した「本居宣長之奥墓(おくつき)」の七文字が刻まれ、その後ろには遺言通りに1本の山桜が植えられているのを見ることができます。 |

より詳しい情報は「宣長記念館」のホームページをご覧ください
