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歌碑マップ
歌碑・句碑名  近鉄松阪駅前ロータリーの本居宣長歌碑
歌・句の内容

(碑表)

 よひのもり木高き陰に里人の
 家居もしけく今そ栄ゆく
               宣長

写  真
場所・地図 近鉄松阪駅前ロータリー
交  通 松阪駅下車 近鉄側出口前
解  説  近鉄松阪駅前のロータリー緑地帯に、この歌碑が建っている。
 この歌碑は、松阪市が近鉄側出口一帯の整備完工の記念として、阪倉松二郎の援助で昭和四十八年十月一日建碑除幕したものである。
 松阪を代表する本居宣長の存在は、この街の誇りでもあるが、その遺跡が近鉄駅側には一基もないのは淋しい。そんな意味もあって建設されたのであろう。高さ約一米十五センチ、幅約一米四十センチ、厚さ約六十センチ程の大きさの碑で、櫛田川上流産の自然石を使用している。そして中央に縦五十一センチ、横約六十一センチの銅板が組み込まれ、歌が五行に刻まれている。黒いところに彫られているので、その字体が少々見にくい。
 またこの歌碑は、魚町の長谷川家所蔵による、”四五百森の絵”の宣長賛の文字を拡大し、久松貰通の校正配字によって成ったものといわれている。
 宣長には、多くの門人がいた。中でも松阪の門人には、三井高蔭、竹内直道、村上円方、林利長、曽根孝直、中津元義、殿村常久、長束忠之らがいて、この松阪の表側魚町を中心に盛大であったという。
 宣長の略歴については、次の項で説明したいのでここでは省くことにしよう。

歌碑・句碑名  御厨神社の普其角句碑
歌・句の内容 (碑表)

 此御神に雨乞する人にかはりて
 ゆふだちや田をみめぐりの神ならば
                  普其角

(碑陰)

 本祠祭江都三囲神吾曹嘗崇
 信三囲神有碑鎬晋其角吟所
 鱠炙人口也袖知因請山田神
 風舘只青書其金千石以樹以
 擬三囲祠也嗚呼神之霊世所
 知願輿吾曹同志者共祷五穀
 豈登国家安穏云
  嘉永五年壬子冬十一月
          中村袖知 謹

写  真
場所・地図 松阪市本町、御厨神社内
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、徒歩約10分
解  説

 この句碑は、別に夕立塚ともいわれ、其角の句碑の中でも有名なものである。松阪駅より西へ約十分歩いた右側にある御厨神社の境内に建っている。碑表には、「此神に雨乞する人にかわりて」と前書がある。
 「東京句碑めぐり」(佐藤風人著)の中にも三囲神社「雨乞」の句碑として紹介されているので、その一文を示すと、

 遊ふ田地や田を見めぐりの神ならば
                    普其角
 遊ふ田地や……とは、ゆふだちを読んで、「夕立や田を……」となる。さて句の由来を聞いてみると、元禄六年に大旱魃があり、近所のお百姓さんたちが、大挙して三囲神社に雨乞いのデモをやった。ちょうどその頃、其角はこの神社の境内に住んでいたので、この句を捧げて雨乞いをした。ところが忽ちにして純然たる豪雨となったと伝えられている。(以下略)

とある。普其角は、寛文元年日本橋の医師竹下某の家に生まれ、別名榎本(宝井)其角ともいう。

歌碑・句碑名  船江薬師寺の芭蕉句碑
歌・句の内容

(碑表)

 梅が香にのっと日の出る山路かな
                  芭蕉

写  真
場所・地図 松阪市船江町、薬師寺内
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、徒歩約20分
解  説

 この碑は、前記御厨神社より西へ約十五分ほど行った薬師寺の境内に建っている。
 高さ約二米三十八センチ、幅約三十七センチ、厚さ約十八センチ程の細長い角柱の碑である。句は中央に一行で刻まれ、碑陰には何も刻字がない。
 だからこの句碑は、いつ頃誰れが建てたものか、全く不明であるが、ただ『勢国見聞集』 に聴竹庵建立とのみある。
 この句は、元禄七年春の作で『炭俵集』や『泊船集』『笈日記』等に掲載されている有名な一句である。
 またこの薬師寺での俳諧については、『松阪の文学資料選集(出丸恒雄著)に、松阪の俳人、斗墨が編んだ『ここの所』は、舟江薬師寺奉納集の記録として、その一文が紹介されている。
 俳譜ここの所といへるを題号につくりて古人のしるされたるをゑま二まいとなせる、右は芭蕉翁独吟の章、ひだりは蕉流の吟、其人々の名をあらわし勢南松阪舟江利生山薬師堂に納めたてまつりぬとしごろ実意のねがひたりていとたのしまざらめや

 安永四乙ひつじのとし八月印文に日吹柳館斗
 墨坊

 なおこの薬師寺には、薬師寺本堂並びに仁王門、仁王像、木造薬師如来、木造持日天像などが市指定文化財になっており、数多くの文化財はその寺の歴史を物語るものであるといえよう。

歌碑・句碑名  花山寺の紫野大綱和尚歌碑
歌・句の内容

(碑表)

 住人はむかしににずと古寺の
 まつのおもはん事もはづかし

写  真
場所・地図 松阪市西町、花山寺内
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、徒歩約15分
解  説

 この歌碑は、西町の花山寺庭内に建っている。碑の高さ約一米五センチ、幅約三十三センチ程の自然石で、白い艶のある石である。
 碑表に歌が刻まれているが、少々読みずらい。碑陰には何も刻字がなく、この碑の詳細がハッキリしないが、この歌は紫野大徳寺大綱和尚が当寺を訪ねて、寺主謂感に代って詠んだものとされている。
 また建設は、明治二十八年十月十八日、当花山寺第十二世住職の中山感中によって建てられたといわれている。
 なお、この花山寺には、”勤王僧安念之碑”という記念碑も建てられているので、『松阪の文学資料選集』(出丸恒雄著)を参考に記載すると原文漢文。謹王事蹟。

 中興の法嗣に安念なる憎あり。信濃国人青栗四郎時元の李弟且同国小県郡小諸の土豪泉小二郎親衛の甥にして阿静房と号す。時に鎌倉の執権北条義時、畏くも皇室をないがしろにし民の肩あからしめず残虐ならびなし。僧は大いに憤怒し、泉小二郎親衡が建保元年追討の義兵を挙げけるに左祖し、東奔西走して勤王を遊説し大いに王事に勤めしも、悲しいかな親衛軍敗れて死し、大功を奏せず、安念師も義時の毒手に罹り獄窓の下に恨みを呑みて悲命の死を致せり、鳴呼師は分外にありて忠誠義烈、国家の為に身を犠牲とす、実に千載不易の人なり。
(明治三十三年春三月花山寺中興第十二世沙門感中謹識)

と詳しく紹介されている。この碑は、大綱和尚の歌碑と同し庭内に建ち、大きさも同じ位である。肉眼で碑文を読むには少し苦労するところがある。

歌碑・句碑名  花山寺の抱月句碑
歌・句の内容

(碑表)

 ちらちらと日は一面に冬の山
               
抱月

写  真
場所・地図 松阪市西町、花山寺内
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、徒歩約15分
解  説

 この碑も前記と同し花山寺の境内の一隅に植木の繁るその下に、ひっそりと建っている。かたつむりが、碑上をゆっくりゆっくり通り過ぎるのを待って撮影した。
 高さ約六十五センチ、幅約四十八センチ程の小さい自然石である。句は表に二行に刻まれ、右下に「抱月」と刻まれている。碑陰には何も刻字はなく、詳細は判らない。
 著者のメモ帳には、安政元年六月地震の為折断るるにより、明治二十二年当山十二世住職中山感中が再建したものであると記してあるが確證がない。
 花山寺所蔵の『花山寺記』には、この碑の紹介はなく現住職もハッキリ記憶しない。
 なおこの寺の入口右側の垣根の所に、高さ約五十センチ、幅約四十センチ程の碑があるが、刻字は薄く全く読みとれない。『松阪の碑』(山住信夫編)によると

 身にしむやはつ霜らしと兄さ〇〇

とあり、「明治4年建立」とあるが、誰れの碑か判らない。

歌碑・句碑名 松阪公園の梶井基次郎文学碑
歌・句の内容

(碑表)

 梶井基次郎文学碑
  城のある町にて
 今空は悲しいまで晴れてゐた
 そしてその下に町は甍を竝べてゐた
 白堊の小学校土蔵作りの銀行
 寺の尾根そして其処西洋
 菓子の間に詰めてあるカンナ屑
 めいて緑色の植物が家々の
 間から萌え出てゐる
  昭和四十九年春
               中谷孝雄書

(碑陰)

 昭和四十九年八月
  市制施行四十周年記念事業
      松阪市長 吉田 逸郎
      石材寄贈 飯高町林壽一
             刻 根来石材

写  真
場所・地図 松阪市殿町、松阪公園
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、徒歩約15分
解  説

 この碑は、見晴らしの良い松阪公園の東北角に建っている。碑のバックには、松阪市内の屋根におおわれ、伊勢湾も一望できる。
 梶井基次郎は十歳の時、鳥羽町錦町に住み、大正八年十八歳のとき、第三高等学校に入学して、中谷孝雄、飯山正等と寄宿舎で一緒に過ごした。その後病気療養のため松阪で一時姉の家に寓し、城跡を散策した。
 大正十四年二十四歳の時に中谷孝雄、外村繁、小林馨、忽那吉之助、稲森宗太郎らと同人雑誌『青空』を創刊して、文壇にデビューしたのである。碑文にある”城のある町にて”は、この時発表した代表作品の一つとして、広く知られている。筆蹟は勿論、仲間で友人の中谷孝雄である。昭和四十九年八月、中谷孝雄、浅野晃、北川冬彦、北川多喜、平林英子らが出席して盛大に除幕式が催された。

歌碑・句碑名  松阪公園の山原得水句碑
歌・句の内容

(碑表)

 なまなかに春のみじかきさくら哉
                 
得水

(碑陰)

 明治三十八年五月
      一葉庵社中

写  真
場所・地図 松阪市殿町、松阪公園
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、徒歩約15分
解  説

 この句碑も、先きの碑と同じ松阪公園にあり、東側の石垣近くに西向きで、桜盛んな木の下に建っている。碑の高さ約一米三十センチ、幅約七十センチ程の自然石で、太い字体で強く刻まれている。
 この句は、山原得水の代表的な有名な一句として知られている。得水は、文政元年生まれ、俗称千秋という。松阪の人で、父は橋本柳仙といい、一志町山原家の養嗣となり、朝熊野間万金丹舗に勤めたという。その父に俳句の手ほどきを受けて、京に上り蒼きゅうに師事した。
 師歿後は、伊勢の神風館花明について学び後年松阪に移って一葉庵三世を継いだ。

 春雨や比良の高峰が見えて降る
 霞つゝ明けて静かな柳哉
 京は京の町にてたかし夕納涼

またこの碑は、碑陰にあるように、明治三十八年一葉庵社中によって建てられた。
 ところでこの一葉庵については、『三重俳諧年表』(桜井祐吉編)によると

 庵は耕雲によって名づけられ、額は森川滄波の掲ぐる所、清人程霞の筆、耕雲滄波共に松阪の俳人。
  一世 竹雨館呉翁
  二世 き月楼滄波
  三世 山原 得水
とあるが、一葉庵の祖である鳥酔を加えると得水は第四世となる。

歌碑・句碑名  記念館前の本居清造歌碑
歌・句の内容

(碑表)

 大人たちのこえもきこゆる
 希はひしてわけゆくふみの
 おくしづかなリ
         本居清造 詠
         本居弥生 書

(碑陰)

  戴恩之記
 先人未踏ノ古学ヲ大成セラレタル碩学、本居宣長大人ノ全遺稿ガ現存スルコトコソ、稀代ノ古事。
 大人三世ノ孫本居清造翁ハ、高祖百五十年祭ノ節、鈴屋宅趾旧宅ヲ松阪市ニ寄贈セラル、翁亦夙ニ大人ノ遺稿ヲ整理セラレ、昭和冊六年 之ヲ松阪市ニ贈与ヲ約シ、昭和冊八年九月七日天寿ヲ畢へラル、嫡子本居弥生氏ソノ遺志ヲ嗣ガル、昭和四十三年大人、遺稿中四十四稿百六十二点ガ始メテ重要文化財ニ指定セラル、昭和四十五年十一月五日本居宣長記念館落成致シ、弥生氏ヨリ大人等ノ遺品八千数百点ヲ松阪市に譲リ渡サレ、滋ニ学界ノ至宝ハ永ク本館ニ保存セラルルニ至ル、鳴呼、大慶ナル哉、コノ度此処ニ、静読古人書卜題スル清造翁ノ歌碑ヲ建テラルニ及ビ、ソノ恩恵ノ一端ヲ聊カ碑陰二書キ留メム、然云フ
 昭和四拾七年四月
   本居宣長記念館館長
          山田勘蔵 謹撰

写  真
場所・地図 松阪市殿町、本居記念館前
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、徒歩約15分
解  説

 本居清造は、宣長翁の五代目で、翁の適品保存に記念館完成を待ったが九十歳で歿した。この功績をたたえようと、大正十五年玉鉾会献詠の作品一首を石に刻した。

歌碑・句碑名  宣長記念館入口の誓子句碑
歌・句の内容

(碑表)

 城を出し落花一片いまもとぶ

(碑陰)

 昭和四十九年三月建之
    天狼俳句会松阪支部
        石材寄贈 林寿
            根来 刻

写  真
場所・地図 松阪市殿町、本居記念館入口
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、徒歩約15分
解  説

この句は、昭和十九年春当地で詠んだもので、『鑑賞の書』(山口誓子著)に次のようにある。

 句集『激浪』所載。昭和十九年四月十九日の作。私は伊勢の富田の海岸で生を養っていたが、病人とて凝っとしてはいられない戦中で、本居宣長の旧居を見るために松阪へ行った。旧居は町なかから城内に移されていたから、城に登ってその遺構をつぶきに見た。
 城から俯瞰すると、やや隔たったところに畑や藪があって、それがほどほどに霞んで見えるのも古い町らしい感しがした。おりから桜の盛りを過ぎたときで、微風に散る花片もあった。城を下りて、城を振りかえると、高みの桜から落花が一片、飛び出すのが見えた。特に選ばれてその一片だけ空中に飛び出し、きらきらと飛翔をつけた。その落花ばかりを見ていられないから、あたりの古びた風景などを見て、しばらくしてまた空中を仰ぐと、ききほど私の注意をひいた落花の一片が、いまだにきらきらと飛翔をつづけている。

なおこの句碑は、誓子自箪の金文字を刻んだもので、櫛田川産の青石を利用した。高さ約一米五センチ、幅約一米余の碑石である。地元天狼俳句会松阪支部の建碑によるものである。

歌碑・句碑名  本居神社の宣長歌碑
歌・句の内容

(碑表)

 志きしまのやまとこころを
 人登は葉あさひににほふ
 山さくらはな
 宣長六世孫本居弥生書

(碑陰)

 この碑の歌は本居宣長大人の自画像の自賛である。その詞書に言う

 これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月に手つからうつしたるおのかかたなり筆のついてに

 これこそ清く明るい我が国人の真心を詠まれて、世々に称えられる名歌である。爾来星霜移りここに百七十年を迎えて大人の学徳を敬慕する我等がつどい計らい歌碑建設の業を起すに至る今やその事成り照る月の四五百の森に大人の遺芳の千歳に薫るを悦ふ
    昭和三十四年春四月
    本居神社崇敬者一同
    宮司 植松筏彦
    責任役員 牧戸正平
    責任役員 和田 實
    市文化財委員会幹事
    山田勘蔵 文
    石工 根来吉三

写  真
場所・地図 松阪市殿町、本居神社
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、徒歩約15分
解  説

 この歌碑は、前記本居宣長記念館と憐接した本居神社の境内に建っている。代表的なこの歌は、宣長六世孫本居弥生の筆によって石に刻まれ、昭和三十四年本居神社崇敬者一同が建立したのである。
 高さ約二米二十七センチ、幅約一米五十八センチの大きさで、高い台石の上に建っている。一般に”敷島の歌碑”と呼ばれている。

歌碑・句碑名  松阪神社の宣長歌碑
歌・句の内容

(碑表)

 民の戸もさヽで月見るよひもり
 めぐみのかげのくもりなき世は
       五世孫本居清造書

(碑陰)

 旧蹟 意悲之杜
     名木「大樟」
 昭和三十三年秋十一月吉日
   本居神社責任役員
          牧戸正平建之
   松阪神社氏子総代
      宮司 浅山憲郎 書

写  真
場所・地図 松阪市殿町、松阪神社
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、徒歩約15分
解  説

 松阪神社と本居神社のあるところには四五百の森といわれ、神社もこの森の中にある。
 この歌碑は、本殿前の大木「大樟」の下で西向きに建っている。
 碑の大きさは、高き約一米七十ニセンチ、幅釣一米余で、前記敷島の歌碑よりやヽ小さい。碑文は、宣長五世孫本居清造の書によるもので、地元牧戸正平の寄進によるものである。歌は鈴屋集所載二首の始めの歌で、根来吉三の割による。
 ところで、”四五百の森”について『松阪の文学資料集』(出丸恒雄編)に次のようにある。

 四五百森と申は御曲輪(城)の古称之由略語興、よいの森と言俗せり、名ふりし所なれば取残し置れて、今は此処のみをよいの森、又四五百森ともいへり、永享五年三月、足利六代前将軍義教公(善光院殿ト号ス)伊勢参宮之時、権大僧都堯孝法師供奉紀行に曰
 此比の月みる宵の森ならば猶旅人の立やよらまし(以下略)

 先きの敷島歌碑と共に、この歌碑も本居宣長の代表歌とされている。

歌碑・句碑名  新座町庚申堂の藤原顕孝歌碑
歌・句の内容

(碑表)

 伊勢の国松阪といふ所の清長院といへる修験者の許に
 ゆく末の千世のさかへはもヽ年の
 百技の松のかげにしるしも

(碑陰)

 昭和三十五年庚子年九月吉日
 寄進者 松阪市新座町住
             牧戸 正平
               妻 美代

 此歌は天保二年京都の葉室中将がお陰参りの時詠進したものという

写  真
場所・地図 松阪市新座町、庚申堂前
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、徒歩約10分
解  説

 この歌碑は、建碑者である牧戸正平宅の近くにある小さな「庚申堂」の前に建っている。歌は、碑陰にある通り、天保二年京都の葉室中将が、お陰参りの際詠んだものといわれ、建碑者である牧戸正平の神宮崇拝精神より生れてこの碑が成った。
 碑の高さ約九十センチ、幅約七十センチ程の大きさで、刻字は少々浅いが十分読める。茶色の石で採択にもよい。
 なおこの庚申堂のある辻橋宅には、『御稱号之字』という古文書もあるという。

歌碑・句碑名  日野町願証寺墓地の宣長歌碑
歌・句の内容

(碑表)

 山室山神先生
 小泉君きさらぎの此、あづまのかたにくだり給ふに一とせ吉野の花見には諸共に物せし事思い出られて 宣長

此たびはひとり見る共さくら花
有し吉野の友なわすれそ

(碑陰)

 右は小泉見卓第一の秘蔵なり、子々孫孫迄も大せつにいたし他家へも一切かし遺す事かたく無用、慥に書付の通り相守申べくものなり
作 文蔵敷

写  真
場所・地図 松阪氏日野町、願証寺墓地
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、徒歩約3分
解  説

 この碑は、松阪駅の正面口より、まっすぐ街中を二、三分ほど行った右側にある願証寺の墓地内に建っている。
 一般に知られていないこの碑であるが、詳細については碑文に示す通り。また『松阪の碑』(山住信夫 編)によると、宣長が二代小泉見庵に与えた歌を、三代見卓が秘蔵し、四代の子息文蔵に伝えたものといわれ、筆は幾呈ではないかとのことである。
 なお初代は、棲真窩・小泉見入。飯高郡大足村より松阪魚町に来住し、本苗奥村。二代見庵、三代見卓に至って御目見被免。
 小泉君とあるは二代見庵で棲真窩先生の嫡男。宣長の門人で明和九年の吉野の花見のお伴をしたのである。
 碑の大きさは、高さ約六十八センチ、幅約一米程で、細字で刻まれているが、拓本などには手頃である。

歌碑・句碑名  新町樹敬寺の舜庵歌碑
歌・句の内容

(碑表)

 志めやかにけふ春雨のふる言を
 かたらん嶺の松かげの庵

(碑陰)

 宝暦十三年(一七六三)鈴屋大人三十四歳の歌石上稿六に『燈月法師(五十歳)京より下りて法樹院にしばしとどまりゐけるが三月廿五日嶺松院会席より申つかはしける其日雨くらしける』
と詞書あり又この年二月三日春庭誕生す五月廿五日夜県居大人六十七歳に対面し『石上私淑言』と『紫文要領』成る

(碑左側)

 昭和四十五年庚戌年十月建之

写  真
場所・地図 松阪市新町、樹敬寺
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、徒歩約5分
解  説

 樹敬寺は、本居宣長の菩提寺として、宣長、春庭らの墓がある。
 歌碑はその樹敬寺の山門を入った左側に建っている。この碑の建っている位置は、嶺松院歌会の跡とされており、『松阪文芸史』(桜井裕吉著)の一文に、「嶺松院歌会に就てて」というのがある。また『宣長小年と樹敬寺』(山下法亮著)に三月廿五日 嶺松院歌会より澄月もとへ遺しける
舜髄

 問ひ来かし君が言葉の花ならで
 見るものなき嶺の松かげ
 しめやかにけふ春雨のふる言を
 かたらむ嶺の松かげの庵

とある。
 碑文にある僧燈月は、西山氏。備前国玉島の生れ。二条派の武者小路実岳に和歌を学び、垂雲軒、酔夢庵とも号す。八十五歳で没し、著書に 『澄月法師千首』がある。
 なおこの碑の大きさは、高さ約一米余、幅約三十センチ、厚さ約十五センチ程である。

歌碑・句碑名  樹敬寺の原田二郎歌碑
歌・句の内容

(碑表)

 ますらをの真心こめて一筋に
 おもひいる矢のとほらざらめや
 嘉朝

(碑陰)

 此の碑は財団法人原田積善会創設者原田二郎翁の自筆の和歌を刻さるものなり翁は青年時代郷里松阪を出てより六十有餘年一日の如く不屈不撓の精神を以て刻苦、勤勉の結果蓄積さる巨財を挙げて社会公共の為に捧げ以て本財団を創設せり而して其の家を絶ち敢て一身一家の計をなさざりし其の心事の高潔なる其の識見の宏遠なる古来匹伝を見さるところ洵に我が国空前の美挙と謂ふべし茲に翁の三周忌辰に当り其の偉業を景慕すると共に翁の精神を不朽に伝へむことを希ひ翁の会心の作を石に勒して祖先以来の塋域たる樹敬寺の境内に建つ
  昭和七年五月五日
    財団法人 原田積善會

写  真
場所・地図 松阪市新町、樹敬寺
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、徒歩約5分
解  説

 『原田二郎翁小伝』の序文より
 原田翁は聖地三重県の生んだ出色の人物である。身を和歌山藩松阪同心の家に起し、厳格なる文武両道の教育を受け、長じて財界に驥足を展ばし、幾多のの功績を樹て、遂に六十年に亘る勤倹力行の結晶たる巨萬の富を厘毛も剰するところなく、あげて財団法人原田積善会に寄附し、遠き将来を慮って樹てられた翁独創の計画によって、之を一般社会の手に与へられたのである。

 我をすて我を忘れて盡さなん
 国ありてこそ生れ出にけれ

 『原田嘉朝集』(均斎詩鈔)あり。嘉永二年十月十日に生れたので嘉朝と雅名をつけた。

歌碑・句碑名  白粉町来迎寺の芭蕉句碑
歌・句の内容

(碑表)

 空風火水地

(碑陰)

 翁終焉元禄甲戌年也治今寛政癸丑星霜百年是歳冬十月十二日歿會其回忌廼渇社中某者所家蔵之真蹟待雪一句 之石面永欽遺労
  
一葉庵
  容輿亭 同社

(碑右側)

 初雁や芦火に背く海人が顔
              
一葉庵 鳥酔

行秋や拭ひ柱におのが影
              
二世 呉扇

保つ保つと夏炉になしぬ炭俵
              
三世 蒼波

(碑左側)

 たわみてはゆきまつ竹のけしきかな
                 
はせを

写  真
場所・地図 松阪市白粉町、来迎寺
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、徒歩約10分
解  説

 この碑は、寛政五年芭雀翁の百回忌に松阪の俳壇一葉庵社中が、矢川の遍正院に建てたもので、いつの頃からかこの来迎寺に移った。天保十四年冬、当時の俳句結社一葉庵社中は、翁の百五十回忌の追善句会も催した。守一、牛鳴、白臺、里中、宴我、夜白、霞涯らが参列していた。

歌碑・句碑名  愛宕町菅相寺の芭蕉句碑
歌・句の内容

(碑表)

 春もやヽけしきととのふ月と梅
               芭蕉

(碑陰)

 元治元年甲子春三月建

写  真
場所・地図 松阪市愛宕町、管相寺
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、徒歩約15分
解  説

 この句碑は、天神菅相寺境内で西を背にして建っている大きな碑である。『松阪文芸史』(桜井祐吉著)によると、この句碑とは別に以前宝暦三年頃、梅輩、梅斧の二人が建碑した碑があったということである。そのことは、『諸国翁墳記』にも、「芭蕉塚伊勢松坂管相寺に在、梅賛連中建」と記されている。

 梅賛は疾くに松坂鳳a居なる団体を組んで盛んに同志を糾合して月次句集を発兌せり、彼は松坂の産、商売の出にて、年少俳を嗜み、近江栗太郡辻村出身の鋳物師で江戸深川に移り住んだ。方鏡閣千梅に師事して俳句に精進したが、其の俳魂は常に正風を憧憬し宝暦三癸酉年初冬其友梅斧と語交して松坂愛宕町の菅相寺境内に芭蕉の塚を建立す。

 春もやヽけしきととのふ月と梅

 は其碑背に「元冶元年甲子春三月建、芭蕉桃青居士」とあり、現在の碑とは別箇のものなり。梅賛の建てたる句碑は、句の趣きも知るべき由なきが、其碑の句は師千梅が書き、碑面は信州の出身にて江戸に住みたる書家で射芸よくした萬玉亭龍湖こと三井親和の筆になったものであり、当時刊行の俳書『千尋の陰』に該塚建設に関しての記録がある。(『松阪文芸史』より)

 従って現在あるこの句碑は、再建されたもので、紀州藩士で殿町に住んでいた吉井政次郎と井田藤次郎によるとされている。なおこの碑の左側には、「芭草翁桃青居士」と記した供養碑も建てられている。

歌碑・句碑名  愛宕町菅相寺々天神の森々碑
歌・句の内容

(碑表)

此菅原大神社 者在昔於処天神森登奈母言伝而 松梅樹等 繁立立有   古伎家乃有印流乎 吾紀国之君之殿人爾 長野清真云之 此松阪之司 奉理弖在耶流許呂 寛政乃二年云斯年 其冢乎平之弖  民之家地爾為麻久思而里人邇事課祈流忝 里人等恐美弖白祈良久者 此家ハ下伊知疾御霊之伊坐而
 乞祈事者 速気久聴賜比 五十小竹鴨犯事志有婆 忽爾崇賜而 其奇志久綾志神西坐在登 痛憚懼而有耶札婆 清貞伊 乎都柄鋤取而 先須伎婆禰初弖曽 里人乎婆役祈流 故壌行逑 自地下伊刀神伎都流伎能 剣奈母出而有耶流 其劔光耀響動而 手触之者爾神懸世志 弓言誨覚賜久 吾者天満天神在 如本治奉札登奈母 教諭賜糾流 故是以清貞乃駅使乎立而 於殿於紀国蟻鶴形乎 告申祈札婆 此大神 国君爾霜 覚賜有事有祈礼婆 清貞爾仰而
 此刀乎為神宝而 御室建而那母 令斎祀賜耶流御社也在 如此為而 永世之偲爾為与登 彼古之迦多乎遺造弖 造置有表之家曽 今之現乃此家者
 寛政八年云記季之二月
      本居宣長畏々母 識

(碑左側)

 文政九年丙戌十一月
      石工 根来惣右衛門
        橘 千蔭斎利弖書

写  真
場所・地図 松阪市愛宕町、菅相寺内
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、徒歩約15分
解  説

 この碑は、天神菅相寺の由来を記したものだが、本居宣長翁が草し、賀茂眞渕の門人橘千蔭書による
ことで、特に紹介した。

歌碑・句碑名  竜泉寺の森川滄波句碑
歌・句の内容

(碑表)

 百姓の茶事はじまる蛙かな
        八十一翁 滄披

(碑陰)

 茲吃文政五玄黙敦吋 林鐘日
                 社中

写  真
場所・地図 松阪市愛宕町、竜泉寺内
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、徒歩約15分
解  説

 この碑のある竜泉寺は、先きの天神菅相寺手前左側の大きな寺である。
 碑は境内入口右手の垣根に近い所に建っている。緑濃い木の下に隠れるように建つこの碑は、高さ約八十五センチ、幅約五十センチほどの大きさである。碑面の文字は、少し薄く読みずらい。
 この句碑は、一葉庵社中の一人森川滄波八十一歳の時に建てられた。
 滄波は松阪平生町の人で、名は吉郎兵衛といい、涵月楼とも号す。一葉庵一世鳥酔の門人で、彼は第三世を継いだ。
 土地の俳人としては、当時活躍を広めその名は各地によく知られていた。また俳詣のほか、墨絵の腕もすぐれていたといわれている。
 なお滄波を一葉庵二世とする説もあるようだが、それは師である鳥酔を除いた場合で、

 一世 竹雨舘呉扇
 二世 涵月楼滄波
 三世 山原得水

となる。主な著書として、『朝陽篇』『五鈴川句会』『おとし角』『桐かもと』『ここは伊勢』『華のかげ』などがある。

 樽提て人の行衛や山さくら
 豆あらす兎は逃て露しぐれ
 菊に似て又寂しさは石蕗の花
 たつ鳥のしづくも氷るあしたかな
 あつき日やなまなか招く草の丈

歌碑・句碑名  垣鼻信楽寺の月の舎句碑
歌・句の内容

(碑表)

 眞現酉堂碑
 鹹き砂のかはきや秋の風
                月の舎

(碑陰)

 弘化二乙巳五月
          大津村
          奥津村
             寺子中建之

写  真
場所・地図 松阪市垣鼻町、信楽寺
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、バスで志村病院前下車
解  説

 信楽寺の門前には、大きな「仏足石脾」があるが、句碑は境内より墓地へ行く入口のところに西向きに建っている。
 仲々彫りは深くて良い。高さ約一米三十五センチ、幅約七十二センチほどで自然石。
 この碑は、土地の俳人月の舎の句を刻んだものだが、

 著せ綿のそのまゝ菊の手向かな
 しほからき砂のかはきや秋の風

という弘化年代の句が知られるのみで、どこの人か詳細不明。
 なお『月時雨』(弘化三年刊)より、この頃の主な土地の俳人を拾ってみると、岱年、梅曦、五鈴、宴我、白石、いはほ、米府、九鳥、推己、翠川、稜水らがいる。

歌碑・句碑名  垣鼻海会寺の霞涯句碑
歌・句の内容

(碑表)

 夏草に声のかくるゝ曠野かな
                  霞涯

(碑陰)

 阪倉氏

写  真
場所・地図 松阪市垣鼻町、海会寺
交  通 前記信楽寺より徒歩約10分
解  説

 この句碑は、以前海会寺跡の道路に面して建っていたが、今は本堂の前に移転している。角柱の碑で、高さ約七十八センチ、幅約三十センチ程で、右下に「露涯」と刻まれている。
 この露涯については、全く不明でどこの人物か、目下のところ判らない。ただ著書に『笠の露』(弘化元年刊)があり、当時の松阪俳壇で活躍したものと思われる。
 また碑陰にある「阪倉氏」については、なお判らず、従って建碑年代も不明。
 ところで『松阪の文学資料選集』によると、『勢国見聞集、碑の部』に、同地海会寺跡に富島稜水の句碑もあると紹介されているが、現在見当らない。

 稜水は、富島九郎兵衛といい、碑に
  こころよりこやすタベの花すすき

と刻まれていた。また同寺には雲誉其雀居士ノ碑もあって

 山寺は蠅追ふ罪もなかりけり
             松山門専中建之

と刻まれていたが、これも不明となっている。そのほか、白雪塚ノ碑、石燈篭ノ碑もあったが見当らない。
 なおこの海会寺では、古くから句会も催されたようで

 露草や結界礎を残すのみ   森田 白露
 月走る雲の表裏にかかわらず 石村朱門洞

などと詠まれた新しい記録もある。

歌碑・句碑名  部田久保菖蒲園の蝸生庵句碑
歌・句の内容

(碑表)

 松阪の名残りとどめよ花あやめ
                 蝸生庵

(碑陰)

松阪菖蒲は異数体の染色体構成を持ち突然変異によって生じた優秀な花菖蒲である。
これは江戸時代末期松阪の殿町に発祥した名花でその由緒ある伝統を青木清次郎がうけつぎ、多年精魂を傾けてその保護育成に当っている。
  昭和四十五年六月
      松阪市長 吉田逸郎

写  真
場所・地図 松阪市部田久保、青木良平邸前(花菖蒲園内)
交  通 近鉄及びJR松阪駅下車、バスで松阪高校前下車、徒歩約10分
解  説

 松阪の部田久保という所に”菖蒲園”がある。その”松阪菖蒲”は有名で、江戸末期頃松阪の殿町に住んでいた和歌山藩士の吉井定五郎が、野生の花菖蒲の中から変わりものだけを採取して、それをもとにしてつくりだしたものと伝えられている。品種は、松阪司、伊勢ほまれ、神路の雪、白鳳、月宮殿、四海波、涼風、夏姿、宝玉、瑞玉、逢引山、藤袴、真如の月、淡化粧、御代の春、瑞兆、花露、桃の里、京舞子、紅孔雀、残月などとあって、松阪市教育委員会から天然記念物として指定されている。
 当時松阪の野口、長林の二家と津の吉川家に分譲されたが、今は野口家所有のもののみが、青木清次郎にうけつがれている。
 この”松阪菖蒲”の美しさを句に詠んだ青木清次郎の碑が、菖蒲園の中に建っている。
 高さ約一米六十四センチ、幅約八十四センチ程の大きさの碑で、昭和四十五年松阪市が建立除幕した。表に句が刻まれ蝸生庵と記され、碑陰にはその由来が刻まれている。

歌碑・句碑名  幸生町実相寺跡の小嶋句碑
歌・句の内容

(碑表)

しほ風の暖かにちるや夕桜
                梅 □

(抑陰)

 小嶋門第□
 世話方  西村 吉蔵
       土佐才次郎
       山田 力蔵
       野口 藤肋

写  真
場所・地図 松阪市幸生町、実相寺跡
交  通 近鉄大阪線東松阪駅下車、徒歩約15分
解  説

 高さ約九十二センチ、幅約四十七センチ、厚さ約二十七センチ程の大きさの碑で、垣根を背に西向きに建っている。
 刻字は浅く肉眼では仲々読み取りにくい。碑表の左下には、号であろう”梅亭?”と彫ってあるが、ハッキリしない。
 当寺は元観徳寺という。明治初め廃寺となって実相寺として知られていたようだ。
 この碑は、その観徳時代には建っていたようで、碑陰に建碑年代が記されていないのでハッキリとは言えない。
 また世話方四名についても当地の人でないとする説もあり、この碑について知る文献もなく忘れ去られるのは残念である。

歌碑・句碑名  櫛田安楽天神の南里菫女句碑
歌・句の内容

(碑表)

 筆塚の在り処も尋ね梅の寺

写  真
場所・地図 松阪市安楽町、安楽天神境内
交  通 近鉄大阪線櫛田駅下車、徒歩約20分
解  説

 この句碑は、近鉄櫛田駅からまっすぐ南へ約二十分ほど行った通称”梅の寺”といわれゆ安楽寺の境内に建っている。
 高さ約六十六センチ、幅約四十五センチほどの大きさの碑で、昭和四十三年三月に建てられた。碑には、句のみ記されており、誰れのものか判らないのが残念で、”南里菫女”とハッキリ彫った方がよい。
 南里菫女は、本名時子という。平生町のカメラ店。昭和六年東京実践女子大学在学中に、俳誌『枯野』主宰の長谷川かな女に師事した。そして『枯野』同人の八木緑草と共に、「二星会」を創り、句作活動を活発にひらいた。後十三年帰津、十七年鳥羽に住し教職に再復職し、楠井不二に師事、谷禿象らと共に大いに句作論談風発、秀作を多く発表した。
 現在、「踏青会」「松毬句会」「すみれ書塾文学会」などに属し活躍されている。
 この句碑の右側には、菫女の発案による”筆塚”も同時に建てられている。

(碑表)

 筆塚

(碑陰)

 昭和四十年三月吉辰
              釈実成 謹書

 この碑の筆蹟は、櫛田村光蓮寺住職の真野実成によるものである。
 なおこの安楽天神境内には、伊勢何木吟社ほか奉納句額がいくつかある。その一つ踏青会、昭和三十五年奉納句に

 天空に日の通るとき梅薫る  森田 白露
 バス下りて探梅の道定まりぬ 小妻明々史
    (略)
 筆塚のあり処も尋ね梅の寺  南里 菫女
 梅林は日照雨に塔は雲被る  今井湧水子
    (以下略)

歌碑・句碑名  岩内瑞巌寺のいはほ句碑
歌・句の内容

(碑表)

 きじ啼くや朝へまわりし月の下
           八十八叟 いは保

写  真
場所・地図 松阪市岩内、瑞巌寺庭内
交  通 近鉄及びJR松阪駅下車、バスで岩内口下車、徒歩約20分
解  説

 岩内瑞巌寺は、「妙法山探蓮社と号し、浄土宗知恩院末、古老の伝に空海の開基にして本尊は宗派上から阿弥陀如来とするも、実は瀑布の傍なる奇岩に空海が彫刻の石観音である。爾来長年代の変転を経て後世はただ一草庵を残すのみになった。
 寛政年間に至り法誉門超上人来て、大いに寺勢の発展につくし、山水の風色に人工の巧妙を添え、桜楓、百樹を栽植し四時花を絶さず、近郷無双の景勝地を造成した。」以下略(『松阪の文学資料選集』より)
 この瑞巌寺の広い絶景の庭に、いはほの句碑がある。
 入口のところに、池に向って陽を背にして大へん見易い位置に建っている。
 高さ約一米十センチ、幅約四十五センチほどの大きさの碑で、背面には何も刻まれていない。刻字はハッキリしているが、建碑者、建碑年代は不明である。
 いはほは、梅田道元。又は光男といい、号をいはほ、いは保、伊波保、梅亭などという。松阪の松ヶ崎町松ヶ島で生まれ、三雲村市場の梅田家を継いだ。
 この碑句は、当地で詠んだもので、いはほの作品は、文政〜天保年間に若干見るに至り、松阪地区で主に活躍。
 また『しのぶぐさ』(文政六年刊)『つみ草』(文政年間刊)『綰柳新冊』(天保五年刊)『乗合船』(天保九年刊)などに、それぞれいはほの句が入集している。

 夕露中に響くや山のかね

歌碑・句碑名  岩内瑞巌寺の米府句碑、可同句碑
歌・句の内容

イ.北川米府の句碑

(碑表)

 松風はよきせせらぎよ後の月
                  米府

(碑陰)

 嘉永四季辛亥八月二日
        北川伝兵衛、正次郎
        重太郎、成政 謹建

ロ.長谷川可同の句碑

(碑表)

 しその香やはしで教える知多郡
                   可同

写  真
場所・地図 松阪市岩内、瑞巌寺庭内
交  通 近鉄及びJR松阪駅下車、バスで岩内口下車、徒歩約20分
解  説

イ.北川米府の句碑

 米府は、北川伝兵衛といい、一志郡三雲村上の庄の人で、翠川、米府紀行を編んだ『つえのひびき』(文政八年刊)などがある。

手もとどくばかりに月の朝熊哉

 碑は、高さ約九十センチ、幅約七十五センチ程の自然石。

ロ.長谷川可同の句碑

 この句碑は、瑞巌寺の中庭に建っている。高さ約八十センチ、幅約三十五センチ程の大きさである。可同は、長谷川次郎兵衛という。松阪の素封家で幼少の頃より漢学を大林省軒に、画を川端玉章に学び応章の号がある。後伊勢の大主耕雨につき、俳句で大いに力を発揮した。

歌碑・句碑名  伊勢寺国分寺前の光明皇后歌碑
歌・句の内容

(碑表)

 井乃本
 恋しくば尋ねてぞみよ伊勢の国
 伊勢寺もとにすめるわらわを

写  真
場所・地図 松阪市伊勢寺町、国分寺前
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、バスで国分寺前下車
解  説

 この碑は、国分寺前というバス停の前に建っている高さ約一米五十センチ、幅約七十センチ、厚さ約四十センチ程もある大きな碑である。
 表には歌が二行に刻まれているほかは、裏には何も刻字がない。艶のある白い自然石に刻まれている碑文は、また少々読みとりにくい。
 著者のメモ帳に、この碑について次のようにある。
 伊勢国分寺は、天正九丁丑年人皇四十五代聖武天皇の勅命により行基菩薩建立せる六十六ヶ国中、一国一寺の勅願寺で、本尊は行基自作の薬師如来を祀り、且つて信長の戦火に遭ひ焼けたものを紀伊大主徳川頼宣卿が再興したものである。
 寺内には、神代の井、和須札井、井文字井等があり、光明皇后が御脳の時、県の井戸水を献じ平癒せる。その時に詠まれた歌が、この碑である。また頼宣や光貞等も県の井戸水を汲み取ったといわれる名井である。
 『伊勢名勝志』にも、この碑が掲載されている。
 なおこの碑は、昭和十二年十一月十日飯田智謙によって建てられたという。

歌碑・句碑名  野村青龍寺の浅原推已句碑
歌・句の内容

(碑表)

 さ間ヽの桜わかれて道廣し
                推己

(碑右側)

 天保十二年辛丑春建之

写  真
場所・地図 松阪市野村町、青龍寺内
交  通 JR及び、近鉄松阪駅下車、バスで曲下車、徒歩約15分
解  説

 この句碑は、『松阪の文学資料選集』並びに『勢国見聞集』(碑の部)に、それぞれ紹介されている碑である。
 それによると、野村赤城山に存するようにあるが、現在は野村町の青龍寺境内左隅に建っている。写真のように碑の中央が円形になっており、碑は三行に右から刻まれている。
 この碑は、以前赤城山の心月寺境内域杓にあったようで、住職によると明治初年に心月寺は廃寺となり、その際この青龍寺に移転されたものと思われるということである。
 なお当寺第十七世純譽正道代筆による『霊名録』(大正十四年成)に、この碑の所在が記録されている。
 碑の高さ約八十七センチ、幅約四十五センチ、厚さ約三十一センチ。円形の直径約二十八センチ程の大きさで、刻字は薄い。建碑は、長谷川夜白。
 浅原推己は、通称半十郎といい、五嶺舎復斎とも称した。名古屋の俳人井上士朗の門人で、文化文政頃に大いに活躍し、その名は広く知られ当時の伊勢俳壇で南勢の雄鎮銚であった。天保六年六十五歳で歿す。
 県下で当時士朗門下として活躍した俳人に、この推己のほか、四日市の鈴木李東、伊勢の徳田椿堂などがあげられる。
 建碑者である夜白は、長谷川夜白といい、通称六郎次という。別に寄生庵、一夢庵ともいう。初め本居春庭に歌学を学んだが、後に浅原推己に従い、俳句を学んだ。弘化二年四十三歳で歿した松阪の俳人である。

歌碑・句碑名  青龍寺の翠渓・翠川・真の女句碑
歌・句の内容

(碑表)

 翠渓居士
 花すすき野中の古井たづねけり
                    翠渓
 引よせて枕にせばや春の山  翠川
 四時かはらず移る月光   真の女
 天保庚子仲夏建之

(碑陰)

 松阪 世古華鳥亭

写  真
場所・地図 松阪市野村町、青龍寺内
交  通 近鉄及びJR松阪駅下車、バスで曲下車、徒歩約15分
解  説

 この碑は、前記推己の句碑と並んで右側にある。碑表には三人の句が刻まれているが、薄くて字が読みにくい。「翠渓居士」とあるから、翠川が翠渓の供養碑として建てたものであろう。天保十一年に建碑されている。
 この碑も推己の句碑と同様、以前は野村赤城山の心月寺にあったものと思われる。
 翠渓には

 心のこるもの多き世の月と花

という辞世の句があるが、どんな俳人か詳細不明である。
 一方翠川は、浅原推己と共に松阪俳壇で活躍した。世古喜兵衛といい、久米村の出身。また華鳥亭とも号し、天保十二年七十四歳で歿した。『ぬのふくろ』(文化八年刊)に

 月花をかさねヽて鳩の杖

『わらかふし』(文政六年刊)、や『蛭子扇』にも入集しているほか、『秋のひびき』(文政十年刊)にも入集している。

 東海の帆しめわ見ゆるかすみ哉

また文化十四年二月、伊勢の野渡ら一行八名と吉野紀行に出かけたほか、文政元年四月伊勢の古森省吾亭に於いて、江戸の金令舎道彦や三河の中島秋挙らとも歌仙興行をするなどの活躍をした。なおこの句碑に刻まれている句は、長谷川夜白の追悼句集『月時雨』に収録されている。

歌碑・句碑名  大河内城趾の句碑
歌・句の内容

(碑表)

 <上段>
 城跡に拳をにぎるわらびかな

 <下段>
余往時来謁見此扁額感慨不能禁惜不可知何人之句也 今茲郷人刊石炊以傳不朽来毛余字乃為書併記其由云
  大正三年甲寅一月
    従二位勲二等男爵
          北畠治房 識

(碑陰)

 大正三年二月
      松阪町 石工 堀川宇三郎

写  真
場所・地図 松阪市大河内町、大河内城跡
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、バスで広坂下車、徒歩約20分
解  説

 広坂のバス停から川を渡って、石垣を積上げた段投畠を通り抜けると大河内城趾がある。大河内城に
ついて『南勢大河内城史』に詳しくあるが、北畠の支城の一つで深い谷に囲まれ、織田信長も容易に攻
めることも出来なかったといわれている。
 その城跡の本丸入口に「史蹟大河内城趾」と記した石標があり、本丸跡には神社がある。昔は北畠八
幡と称し、拝殿の額にこの碑と同じ句が奉納されている。作者不明であるが、北畠治房は大正三年、この句についての感懐を傍の碑に刻んだのである。
 碑の高さ約一米十センチ、幅約五十六センチ、厚さ六センチ程の大きさで、刻字は浅いがどうにか読
める。またこの碑の右側には「大河内城址記念碑」という巨大な碑が建っている。碑文は、大部分を北
畠国司家賛称の詞で費している。この大河内城については、歌にも度々詠まれており、

 さしてこしその滝川のうたれけん
      昔おほゆるまむし谷かな
                坂倉有周

などは、その一つである。

歌碑・句碑名  立野町の長谷川素逝句碑
歌・句の内容

(碑表)

 かさといふくめぎ落葉に山日和
                 素逝

(碑陰)

 昭和五十二年十月十日
     長谷川素逝句碑建立委員会

写  真
場所・地図 松阪市立野町、松阪ハイツ広場
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、バスで中部中学校前下車、徒歩約5分
解  説

 この碑は、立野町の福祉センター”松阪ハイツ”の入口庭園に建っている。
 この句碑に関しては、『伊勢新聞』(昭和五十二年十月十一日掲載)の記事が詳しく説明しているので引用する。
 恩師の功績を句碑に託して後世に伝えよう――と、陳川会(旧津中卒業生)は、この地に長谷川素逝先生の句碑を建立。
 十日午前十時から関係者約八十人が参加して除幕式を行い、恩師の孫が幕を除いた。
 故長谷川先生は旧津中学校で教鞭をとり、県下をはじめ全国に多くの教え子を持ち、また俳人として知られる。
 同先生の教えを受けた同中学卒業生で組織する陳川会は、恩師の業績を後世に語り継いでゆこうと、句碑を建立することになり、一時同先生は松阪市松ヶ崎に住んでおり、詠み上げた俳句集の中にも、”松阪”を表現する事柄もあることから、同市の中心地となった兵陵地に建立することにした。
 句碑は、だ円型をした千種石に黒ミカゲ石が張り込まれてあって、碑には同教諭が詠んだ句が刻まれており、その周辺はサツキに囲まれている。華麗な字体は、この碑とマッチして美しく陽光を受けて、まぶしく建っていた。
 碑の高さ約一米四十センチ、幅約一米五十センチ程の大きさである。

歌碑・句碑名  坂内不動の句碑・歌碑
歌・句の内容

イ.歌碑

(碑表)

 あら尊と華の巌の滝つせは
   山にひびくも御法なるらん

ロ.月化の句碑

(碑表)

 滝はねを交るいはをや苔の花
                  月化

写  真
場所・地図 松阪市坂内町、坂内不動滝横
交  通 JR及び近鉄松阪駅下車、バスで不動橋下車、徒歩約10分
解  説

 「坂内不動院は四百有余年昔、坂内城主の持念佛であった尊い坂内不動明王が祀られてあり、三十メートル余りの不動大滝は雨乞いの滝として名高い。また境内にはお姿の珍らしい延命地蔵尊(子安地蔵)も祀られている。いろいろの伝説や霊顕灼かな物語りを凉感に浸りつゝ聴くこともユートピアと思うこの林道を六百メートル登れば不動院まで車で行ける」と案内板に記されている。
 この二つの碑は、滝壺の横に並んで建っている。いつ頃誰れのものか判らない。この碑のあるところは、薄暗く滝のしぶきに濡れながら、どうにか碑文を読む。この碑に関して松阪市立図書館長前川弥太郎にご教示を得た。深謝。

歌碑・句碑名  大石神社の荒木子風句碑
歌・句の内容

(碑表)

 うばいあう投げ餅春の土匂う
                 子風

(碑陰)

 昭和四十七年六月建之
           みちくさ会有志

写  真
場所・地図