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| 荒井勘之烝(あらいかんのじょう) |
江戸後期の地誌学者。
1786年(天明6年)伊勢寺村庄屋荒井万右衛門の長男として生まれ、名を宗善と称する。伊勢寺村等の庄屋を勤める傍ら、伊勢国の地誌研究に取り組み、66歳の時に「勢国見聞集(せいこくけんぶんしゅう)」全25巻を脱稿する。1852年(嘉永5年)、同書は紀州藩主に献上され、その功績で銀1枚と苗字帯刀が許されている。著書に「伊勢寺記」「増補勢陽雑記」等があり、また仏画・仏像作品を数多く残している。1854年(嘉永7年)69歳で没する。 |
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| 宇田荻邨(うだてきそん) |
昭和期の日本画家。
1896年(明治29年)魚町の宇田春吉の長男として生まれ、名を善次郎と称し、荻村・荻邨と号する。16歳から二見町の画家中村左洲に絵を習い、その後、上京して菊池芳文に師事しながら京都市立絵画専門学校を卒業する。24歳で第1回帝展に入選し、やがて帝展(日展)審査員・日本芸術院会員等として活躍する。松阪に残る代表作品に「梁(やな)」「飛香舎(ひぎょうしゃ)(藤壺)」等がある。1980年(昭和55年)83歳で没する。 |
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| 植村政勝(うえむらまさかつ) |
江戸中期の本草学者。
1695年(元禄8年)大津村杉(大津町)の植村山三郎政恭の子として生まれ、名を政勝、通称を左平次と称し、新甫と号した。16歳で紀州藩御庭方(きしゅうはんおにわかた)に召し出され、やがて藩主徳川吉宗が8代将軍になるに随って江戸に下り、幕府奥御庭方(ばくふおくおにわかた)となる。26歳で駒場薬園(こまばやくえん)の園監に抜擢され、以来、隠密用務をも含めて86回にわたって各地の採薬調査を行う。著書に「諸州採薬記(しょしゅうさいやくき)」等がある。1777年(安永6年)83歳で没する。 |
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| 韓天寿(かんてんじゅ) |
江戸中期の書家。
1727年(享保12年)京都の青木家に生まれ、やがて職人町(中町)の豪商中川家分家の養子となる。名を天寿、通称を清三郎・長四郎、字を大年と称し、酔晋斎(すいしんさい)と号する。書は松下烏石に師事して中国の晋・唐時代の書風、特に王羲之(おうぎし)の書体を重んじ、晩年、継松寺無倪和尚(けいしょうじむげいおしょう)の援助で「岡寺版法帖(おかでらばんほうじょう)」を刊行する。また、池大雅(いけのたいが)・高芙蓉(こうふよう)と親交があり、共に「三岳道者」と称して作品を残す。1795年(寛政7年)69歳で没する。 |
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| 殿村安守(とのむらやすもり) |
江戸後期の松阪商人。
1779年(安永8年)中町で木綿商を営む殿村家の分家に生まれ、幼名を助吉・五兵衛と称する。17歳の時に松阪屈指の豪商である本家の殿村佐五平家(とのむらさごへいけ)を継ぎ、名を安守・周表(かねあきら)と称して篠斎(じょうさい)・三枝園(さえぐさのその)等と号した。16歳で宣長に入門して和歌を究め、宣長没後は春庭の後見人として活躍する傍ら、戯作者滝沢馬琴と深く交わって「犬夷評判記(けんいひょうばんき)」を刊行する。著書に「犬掻戯筆(けんそうぎひつ)」等がある。1847年(弘化4年)69歳で没する。 |
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| 殿村琴魚(とのむらきんぎょ) |
江戸後期の戯作者。
1788年(天明8年)中町の殿村家に生まれ、名を清吉(精吉)、字を守親(もりちか)と称したというが、詳細は不明である。殿村本家の京都店に手代として奉公していた文化年間の頃、義兄にあたる殿村安守の紹介で滝沢馬琴に師事し、櫟亭琴魚(らくていきんぎょ)と号した。馬琴から最も嘱望された門人であり、また馬琴の出版を援助するスポンサーでもあった。著書に「小桜姫風月後記(こざくらひめふうげつこうき)」「刀筆青砥石文」等がある。1831年(天保2年)44歳で没する。 |
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| 丹羽正伯(にわしょうはく) |
江戸中期の本草学者。
1691年(元禄4年)職人町(中町)の医師丹羽徳応の長男として生まれ、名を貞機(さだもと)、字を哲夫、通称を正伯と称し、称水斎(しょうすいさい)と号する。本草学を京都の稲生若水(いのうじゃくすい)に学んだ後、江戸に下って医業を開き、30歳で幕府の採薬使に登用される。以来、野呂元丈・植村政勝らと各地の採薬調査を行う傍ら、下総薬園(しもうさやくえん)(千葉県船橋市)の管理を命じられる。著書に「庶物類纂(しょぶつるいさん)」等がある。1756年(宝暦6年)66歳で没する。 |
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| 青木夙夜(あおきしゅくや) |
江戸中期の日本画家。
京都の商家青木家(田丸屋)の生まれというが、詳細は不明である。従兄弟にあたる職人町(中町)の書家韓天寿(豪商中川長四郎)を介して、南画家の池大雅(いけのたいが)に師事し、やがて京都東山の大雅堂2世を継承する。松阪には、天寿を頼って度々逗留(とうりゅう)したため、市内の寺社や豪商宅に数多くの作品を残しているが、中でも長谷川家の「離合山水図」等が知られる。1789年(寛政元年)に没したというが、享年等も不明である。 |
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| 佐佐木信綱(ささきのぶつな) |
明治から昭和期の国学者。
1872年(明治5年)石薬師村(鈴鹿市)の歌人佐々木弘綱の長男として生まれる。6歳で家族と松阪へ移住し、約5年間を湊町で暮らす。この間、父弘綱は鈴屋歌会の振興に努めるが、信綱はこの頃の思い出が、後の宣長と真淵の対面を述べた「松阪の一夜」一文になったという。11歳で上京して東京帝国大学を卒業、国学者として偉大な業績を残す。著書に「校本万葉集」等がある。1963年(昭和38年)92歳で没する。 |
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| 森川滄波(もりかわそうは) |
江戸中期の俳人。
1742年(寛保2年)平生町で鬢付油商(びんつけあぶらしょう)を営む須賀屋に生まれ、通称を吉郎兵衛と称し、滄波・涵月庵(かんげつあん)と号する。松阪名産「白梅」本舗の製造・販売元でもある。家業の傍ら、江戸の俳人鳥明に師事して俳諧を志し、商用の合間に江戸の俳人と深く交わる。60歳頃に隠居した後、一葉庵を主宰し、松阪俳壇の中心として活躍する。句集に「一葉額」等があり、愛宕町の竜泉寺境内に句碑が建つ。1822年(文政5年)81歳で没する。 |
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| 角屋七郎兵衛(かどやしちろべえ) |
江戸初期の海外貿易商。
1631年(慶長15年)湊町の廻船商角屋七郎次郎忠栄(ただひで)の次男として生まれ、通称を七郎兵衛、名を栄吉と称する。22歳の時に長崎から御朱印船八幡丸に乗って安南(ベトナム国)に渡り、貿易商として身を起こすが、やがて鎖国令の施行により帰国が叶わず、安南の貴族家から妻を迎えて日本人町に永住することになる。その後、家業の傍ら日本人町の中心人物として活躍するが、1672年(寛文12年)63歳で没する。 |
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| 小津安二郎(おづやすじろう) |
昭和期の映画監督。
1903年(明治36年)東京深川で肥料問屋を営む小津寅之助の次男に生まれる。9歳の時、母・兄弟とともに松阪町垣鼻(愛宕町)に転居して第二尋常小学校に転入、県立第四中学校(後の宇治山田中学校)へ進む。卒業後は一時期代用教員を勤めるが、20歳で上京して松竹蒲田撮影所へ入所する。松阪での青春期には、家近くの映画館「神楽座」に通い続け、これが契機で映画の道を歩んだという。監督作品は1927年の「懺悔(ざんげ)の刃」から1962年の「秋刀魚の味」まで54本に及ぶ。1963年(昭和38年)60歳で没する |
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| 森壷仙(もりこせん) |
江戸後期の松阪商人。
1743年(寛保3年)西町で米穀・薬種商を営む山村屋の長男に生まれ、名を治助と称して壺仙と号する。少年期から文芸を好み、俳諧・絵画・戯文・落首等の作品を数多く残しているが、代表作として「宝暦咄し(ほうれきばなし)」がある。同書は、宝暦から文政期までの約80年間の庶民生活史であり、町の移り変わりや庶民の生活・風俗を克明に記す。その他、著書に「いせ参御蔭之日記」等がある。1828年(文政11年)87歳で没する。 |
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| 小津久足(おづひさたり) |
江戸後期の松阪商人。
1804年(文化元年)百足町(西之庄町)の豪商小津家に生まれ、幼名を安吉、字を久足、通称を新兵衛・与右衛門と称し、桂窓(けいそう)と号する。14歳で本居春庭に入門し、やがて後鈴屋門の重鎮として活躍した人物である。戯作者滝沢馬琴や画家円山応瑞・応震父子の後援者で知られるとともに、蔵書は西荘文庫(天理図書館所蔵)として有名である。著書に「三栗日記」「久足詠草」等がある。1858年(安政5年)55歳で没する。 |
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| 世古格太郎(せこかくたろう) |
江戸末期の勤王家。
1824年(文政7年)西町の酒造業黒部屋に生まれ、幼名を雅次郎、名を延世、字を子直、通称を格太郎と称する。儒学を斎藤拙堂(せつどう)、国学を足代弘訓(あじろひろのり)に学ぶが、22歳の時に弘訓を介して三条実万(さねつむ)の知遇を得、以来、度々上京して尊王攘夷(そんのうじょうい)の志士と交わる。明治維新後は新政府に重用される傍ら、正倉院御物調査等の社寺の文化財保護に業績を残す。著書に「唱義聞見録(しょうぎもんけんろく)」「銘肝録(めいかんろく)」等がある。1876年(明治9年)53歳で没する。 |
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| 竹川竹斎(たけがわちくさい) |
幕末から明治期の篤志家(とくしか)。
1809年(文化6年)射和の豪商竹川政信の長男として生まれ、幼名を馬之助、名を政胖(まさやす)、字を子広(しこう)と称し、竹斎・緑麿(みどりまろ)・吉葛園(よさずらのその)と号した。21歳で家督を継いだ竹斎は、商いの傍らさまざまな人々と交わって学識を深め、やがて私財を投じて灌漑池(かんがいいけ)の築造、射和文庫の創設、茶桑園の開墾、射和万古の開窯など、地元の産業振興と人材育成に尽くす。なかでも射和文庫は、日本最初の私設図書館として注目すべきものである。著書に「海防護国論」「浮宝の日記」等がある。1882年(明治15年)74歳で没する。 |
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| 荒木是水(あらきぜすい) |
江戸前期の書家。
1657年(明暦3年)中町の綿商荒木浄悦の長男として生まれ、字を蔵六、通称を山三郎と称し、是水・是翠(ぜすい)・陸沈洞(りくちんどう)・信的斎(しんてきさい)と号する。京都の佐々木志津麿に師事して書を極め、やがて家業を弟に譲って書家となる。師志津麿直伝の大字を得意としたが、中でも縦1丈4尺余り(約4
.3m)横6尺の紙面に認めた「動静」の大書は天覧に供し、絶賛を得たという。著書に「忘筌集(ぼうせんしゅう)」等がある。1713年(正徳3年)57歳で没する。 |
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| 服部中庸(はっとりなかつね) |
江戸中期の国学者。
1757年(宝暦7年)松阪町奉行与力の服部三右衛門時中の長男として生まれ、幼名を和助、名を中庸、字を義内(ぎない)・義翁(ぎおう)と称し、楓蔭(かえでかげ)と号する。29歳で宣長に入門して古学を究め、その著「三大考」は「古事記伝」の付巻として刊行される。松阪城代与力という立場から、宣長の紀州藩出仕、学問所設立の建白等々に際して蔭ながら支援した人物である。著書に「天地考」「七大考」等がある。1824年(文政7年)68歳で没する。 |
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| 長谷川可同(はせがわかどう) |
明治から大正期の俳人。
1868年(明治元年)大手町(本町)の長谷川分家に生まれ、やがて魚町の本家11代目を継ぐ。幼名を定次郎、名を定矩(さだつね)、通称を治郎兵衛と称し、可同・応章と号する。23歳で大主耕雨(おおぬしこうう)に入門して俳諧を極め、絵画は川端玉章・磯部百鱗(いそべひゃくりん)に学び、また裏千家の茶匠でも知られる。庭園隅に書斎「餅舎(もちのや)」を建て、餅に関する書画・看板・日用品・玩具等の資料収集家としても有名である。1925年(大正14年)58歳で没する。 |
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| 服部一忠(はっとりかずただ) |
戦国時代の武将。
尾張国津島村(津島市)の豪族服部平左衛門の子として生まれ、小平太と称するというが、詳細は不詳である。初め織田信長に属して桶狭間の合戦で軍功を挙げ、本能寺の変で信長が倒れた後は、豊臣秀吉に仕える。1591年(天正19年)松阪城主となり南伊勢で3万5千石を領し、伊勢国の検地奉行としてその手腕を振う。しかし、関白秀次事件に連座して改易となり、1595年(文禄4年)自刃する。 |
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| 古田重勝(ふるたしげかつ) |
江戸初期の武将。
1560年(永禄3年)美濃国の古田吉左衛門重則の長男として生まれ、初め豊臣秀吉に仕えて近江国日野を領する。1595年(文禄4年)小田原合戦の軍功により、松阪城主となり南伊勢で3万5千石を領し、やがて松阪城の大改修を行う。秀吉没後は徳川家康に属し、1600年(慶長5年)関が原の合戦の軍功により2万石を加増される。その後、江戸城の石垣普請奉行(いしがきふしんぶぎょう)を務めるが、1606年(慶長11年)江戸において47歳で没する。 |
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| 古田重治(ふるたしげはる) |
江戸初期の武将。
1578年(天正6年)美濃国の古田吉左衛門重則の三男として生まれる。重勝没後、徳川家康は跡目を弟重治に相続するように命じるが、重治は固辞して重勝の遺児希代丸(後の重恒)を立て、自らは後見人として補佐役に徹する。家康は「世に稀なる律義者」と激賞したという。1625年(寛永2年)48歳で没する。1619年(元和5年)古田家は石見国浜田(浜田市)に国替えになり、以後、松阪は紀州藩領となる。 |
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| 曽我蕭白(そがしょうはく) |
江戸中期の日本画家。
1730年(享保15年)京都の商家三浦家に生まれ、名を暉雄・暉一、字を蕭白と称し、蛇足軒(だそくけん)・鬼神斎(きしんさい)等と号する。近江日野の高田敬輔(けいほ)に師事し、やがて奇抜な構図と筆使いで独自の画風を極める。伊勢地方には29歳から42歳にかけて3度来訪し多くの大作を残しているが、市内では朝田寺の「獅子図」「鳳凰・獏図」、継松寺の「雪山童子図」、菅相寺の「千方牛和尚図」等が知られる。1781年(安永10年)52歳で没する。 |
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| 丹羽保次郎(にわやすじろう) |
大正から昭和期の電気工学者。
1893年(明治26年)日野町で綿糸商を営む丹羽安兵衛の長男として生まれる。松阪尋常小学校・同高等小学校(後の第一小学校)、県立工業学校(後の松阪工業高校)を経て東京帝国大学を卒業、その後、磁気測定装置・NS透磁率計・写真電送装置等を発明して、電気通信技術の発達に多くの業績を残す。第二次世界大戦後は、東京電機大学学長・日本工学会会長等を歴任する。1975年(昭和50年)81歳で没する。 |
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| 福井文右衛門(ふくいぶんえもん) |
江戸前期の名張藤堂家家臣。
江戸時代、機殿地区は津藤堂藩に属し、名張の藤堂高吉家の所領であった。1648年(慶安元年)、文右衛門は代官として保津村の代官所へ赴任する。1650年(慶安3年)5月20日夜、出間村の窮乏(きゅうぼう)を見かねた文右衛門は、村民を集めて神服織機殿神社境内を貫く水路の開削を強行し、翌朝、完成を見届けた後、神域侵犯の責任を負って54歳で自刃する。水路は今も「ぶんよむ樋」と呼ばれ、神社東側に顕彰碑が建つ。 |
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| 三井高利(みついたかとし) |
江戸前期の松阪商人。
1622年(元和8年)本町で味噌・酒商を営む三井則兵衛高俊の4男として生まれ、名を高利、通称を八郎兵衛と称し、宗寿と号する。14歳で江戸に出て兄俊次の店を手伝うが、28歳の時に松阪に帰り金融業を営む。52歳で江戸本町に呉服店と京都に仕入店を開業、その後、現金正札売り・切り売り・仕立て売り・引き札発行等々、斬新な商法を展開して繁栄する。また両替店も開業して事業を拡大し、全盛期には江戸・京都・大阪・松阪で15店、従業員は734人にも及んだ。1694年(元禄7年)73歳で没する。 |
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| 三井高蔭(みついたかかげ) |
江戸後期の松阪商人。
1759年(宝暦9年)本町の豪商三井宗十郎高路(三井家連家の鳥居坂家)の4男として生まれ、幼名を熊五郎・亀之助、名を高照・高蔭と称し、宗養と号した。21歳で宣長に入門し、講読会・歌会・旅行等には常に師の傍に伴い、また経済的な支援をも惜しまなかった人物である。著書に宣長の「玉あられ」を擁護(ようご)した「弁玉あられ論」をはじめ、「高蔭詠草」等がある。1839年(天保10年)81歳で没する。 |
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| 本居宣長(もとおりのりなが) |
江戸中期の国学者。
1730年(享保15年)本町で木綿商を営む小津定利の長男として生まれ、幼名を富之助、名を栄貞(ながさだ)・宣長、通称を弥四郎と称し、春庵・鈴屋・中衛等と号した。23歳で上京して医学・儒学等を学び、28歳で帰国した後は、医業を営みながら和歌や古典研究に没頭しているが、やがて賀茂真淵に師事して「古事記」の研究に着手する。「古事記伝」全44巻は、35年間をかけて69歳の時に完成させているが、この他「玉勝間」「うひ山ふみ」「鈴屋集」等の数多くの著書を残している。1801年(享和元年)72歳で没する。 |
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| 本居春庭(もとおりはるにわ) |
江戸後期の国学者。
1763年(宝暦13年)本居宣長の長男として生まれ、幼名を健蔵、名を春庭、通称を健亭と称し、後鈴屋と号する。少年期から父宣長の研究を手伝いながら、自らも学者としての道を進むが、32歳の頃に失明している。しかし、その後、家族の援助を受けながら言葉の研究に取り組み、「詞(ことば)の八衢(やちまた)」「詞の通路(かよいじ)」等の著書を残す。宣長没後は松阪において本居学を継承し、門人育成に努める。1828年(文政11年)66歳で没する。 |
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| 本居大平(もとおりおおひら) |
江戸後期の国学者。
1756年(宝暦6年)本町で豆腐屋を営む稲掛棟隆(いながきむねたか)の子として生まれ、幼名を常松、名を茂穂・大平、通称を十介(じゅうすけ)と称し、藤垣内(ふじのかきつ)と号する。宣長古参の門人の1人でもある父棟隆の影響を受けて、13歳で宣長に入門する。宣長没後は、春庭に代わり本居家を相続して紀州藩に仕えるが、やがて和歌山に移住して、本居学の普及に努める。著書に「神楽歌新釈(かぐらうたしんしゃく)」「八十浦(やそうら)の玉」等がある。1833年(天保4年)78歳で没する。 |
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| 大淀三千風(おおよどみちかぜ) |
江戸前期の俳人。
1639年(寛永16年)射和の商家三井家に生まれ、名を友翰(ゆうかん)と称し、三千風・無不非軒(むふひけん)・東往居士(とうおうこじ)等と号する。15歳から俳諧を志し、31歳で剃髪(ていはつ)して松島(仙台市)の瑞巌寺に隠棲するが、この頃、1日に3千句を詠んだことから三千風を称したという。その後、日本全国を旅し、晩年は大磯(神奈川県)にある西行法師ゆかりの鴫立庵(でんりゅうあん)に入る。著書に「仙台大矢数(せんだいおおやかず)」「日本行脚文集」等がある。1707年(宝永4年)69歳で没する。 |
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| 奥田三角(おくださんかく) |
江戸中期の漢学者。
1703年(元禄16年)津藤堂藩領豊原村(豊原町)の大庄屋奥田清十郎士救の子として生まれ、名を士亨、字を嘉甫、通称を総四郎・清十郎と称し、蘭汀(らんてい)・三角・南山と号する。19歳の時に上京して儒学者伊藤東涯に入門し、帰国後、29歳で津藤堂藩の儒官として仕える。以来、奥田家は代々漢学者を輩出し、藩校有造館の重鎮として登用されている。著書に「三角集」「毛詩解」等がある。1783年(天明3年)81歳で没する。 |
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| 蒲生氏郷(がもううじさと) |
戦国時代の武将。
1556年(弘治2年)近江国日野城主蒲生賢秀(かたひで)の長男として生まれ、幼名を鶴千代、名を忠三郎、字を賦秀(やすひで)、諱(いみな)を氏郷と称する。13歳で織田信長の許に人質として降り、15歳の時に大河内城攻めで初陣を飾って信長の娘冬姫を娶る。その後、各地を転戦して軍功を挙げるが、本能寺の変の後は秀吉に属する。1584年(天正12年)松ヶ島城に移って南伊勢12万石を領し、やがて城下町を築いて松阪城に入る。新城下では、楽市・楽座の施行、参宮街道の移設等の斬新な商工振興策を行い、「商都」としての基盤を築く。この頃、洗礼を受けてレオンと称するとともに、茶人千利休の門人七哲の筆頭に挙げられる。1590年(天正18年)小田原攻めの後、奥州会津(会津若松市)に転封して42万石を領し、その後、加増・検地により92万石の太守となる。1595年(文禄4年)40歳で没する。 |
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| 梶井基次郎(かじいもとじろう) |
大正から昭和初期の小説家。
1901年(明治34年)大阪市の梶井宗太郎の次男に生まれる。父の転勤により10歳で鳥羽へ転居、鳥羽尋常小学校から県立第四中学校へ進むが、12歳で再び大阪市に移る。23歳の夏、殿町の姉宮田富士宅で1か月を過ごし、この時のスケッチが「城のある町にて」の素材となる。翌年、中谷孝雄・外村繁等と「青空」創刊、本格的な文筆活動を行う。著書に「檸檬」「交尾」等がある。1932年(昭和7年)31歳で没する。 |
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