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“あるく”エッセイ“古事記”感想文 入賞作品発表!

『私の人生を変えた出会い』 エッセイ・『古事記』感想文にたくさんのご応募ありがとうございました。
最終選考会の結果、最優秀賞2名、優秀賞2名、入選4名、ジュニア賞3名を選考いたしました。

 
最優秀賞
(2名)
『私の人生を変えた出会い:一般』
「しくだい やるやる」
高田 外亀雄様
『私の人生を変えた出会い:一般』「再会」 阿部 広海様

優秀賞
(2名)
『私の人生を変えた出会い:一般』「心の錦」 佐々木 敏様
『私の人生を変えた出会い:一般』「源さん」 たまき じゅんいち様

入選
(4名)
『私の人生を変えた出会い:一般』
「<岐路>で手をさしのべた人」
伊東 静雄様
『古事記:一般』「古の「まこと」を探せ」 小野 一朗様
『古事記:一般』「古事記を読んで」 渡 登志子様
『古事記:一般』「戯曲 古事記」 布施 圭郎様

ジュニア賞
(3名)
『私の人生を変えた出会い』「夢への一歩」 矢田 めぐみ様
『私の人生を変えた出会い』「出会い」 文山 和樹様
『私の人生を変えた出会い』「強く生きる事」 鈴木 沙英様
 

最優秀賞(2名)
 
◆しくだい やるやる」
高田 外亀雄様

 僕の妹は、精神的に障害があった。学校の体育館での朝会などで多数の人が集まると泣き叫んだ。同級生は、お前が兄だからなんとかしろと言ったが、ぐずり出したら手の施しようがなかった。担任の先生は「またか」とそっぽをむいた。僕は「神様どうか泣くのを止めて下さい」と祈った。
 妹が三年生になると白髪の男のA先生が担任になった。始業式で妹は泣き叫び、さらにおしっこをもらした。妹は新しい事態に激しく抵抗する子供だった。周りの子がキャアっと逃げた。床にはぷくっと水たまりができ、鼻をつまむ子やわざと咳をする子もいた。
 A先生は、妹の所にくると妹と向き合って座った。そうして、妹が泣くたびに大きくうなずいた。それを何度も繰り返すと、妹は泣きやんだ。次にA先生は尿でぬれた妹を抱き上げて、「先生が悪かったね。そばにいれば泣かなかったんだよね。ごめん、ごめん」と抱っこして保健室へ向かった。
 すぐにA先生は、新聞紙とバケツを二つ持ってきた。新聞紙で尿をふき取り、尿のあとを雑布でふいた。子供たちが「きたない」と顔をそむけると、「そうだ。きたないね。きれいにするからがまんしてね」と先生は平然とふき続けた。
 その後も妹は何回かおもらしをした。先生は予め用意した雑布で、「きたないね。ごめん、ごめん」と言いながらふいた。いやな顔をせず、「きたない……」と楽しんでいるようにも見えた。僕は子供ながらにもA先生に申し訳なくて、A先生の顔を正面に見られなかった。
 やがて妹は朝会で泣かなくなった。さらに、「しくだい、やる、やる」と国語の教科書をたどたどしく読み出した。母は「かわったね。先生に足むけて眠れない」と泣いた。僕は母の涙を見て、「僕もA先生のような先生になろう」と本気で思った。恵まれない人のために向き合うと生き方を定めたときだった。

 
◆「再会」
阿部 広海様

 私は中学を卒業すると宮大工の職人になりたくて東京へ出た。七年間の修行が終わり、小さな店を構え独立した。「職人は腕一本で勝負じゃ」と豪語していたが、いつも心のどこかに中卒というコンプレックスをもっていた。建築士の資格を取るためにも高校へ行こうと決意し、都内の定時制工業高校を受験した。無事合格、晴れて入学、教室で担任の先生の紹介があった。放課後、先生はにこにこしながら私に近寄ってきて突然、握手を求めてきた。「ヨッ!久しぶり阿部君」私は何が起きたかわからずキョトンとしていた。「宮田だよ。ほら睦小で一緒に遊んだ・・・」「あっ宮ちゃん・・・」まさか小学校の時の親友が担任の先生とは、二十年ぶりの再会に涙が出るほど嬉しかった。
 宮ちゃんとは、家がすぐ隣りで小学校六年間ずっと同じクラスで落ちこぼれの私にいつも勉強を教えてくれ、田舎の山や川で一緒に遊んだ唯一の親友だった。
 宮ちゃんに巡り会えた嬉しさもあり、夜の学校生活は仕事の疲れも忘れ楽しかった。あい変わらず勉強は苦手だったが、宮ちゃんはいつも横に来て優しく教えてくれた。自分のことよりも、いつも生徒のことを思い、心を配る人間味あふれたあったかい宮ちゃん先生だった。休日はプライベートで一緒に飲みに行き教員の苦労談や人生観にも耳を傾けた。
 そんな宮ちゃんに感銘を受けてか私も先生になりたい、と思うようになっていった。
「オレ、二部の大学に行って先生になるよ」
宮ちゃんと固い約束をして定時制を卒業した。
 しかし、六年前、宮ちゃんは突然の病に倒れ天国に旅立ってしまった。教員になったことを誰よりも喜んでくれた宮ちゃん。宮ちゃんの遺志を継ぎ昨年、故郷の定時制高校に赴任した。毎日、夜空の下で生徒たちと一緒に走り回っている。キラキラ光る一番星の宮ちゃんが、いつも私を見守ってくれているかのように優しく輝いている。


優秀賞(2名)
 
◆「心の錦」
佐々木 敏様

 今から三十五年程前の事に成る。上京し、都内で広告代理店で働き、多忙で走り回っていた頃である。御徒町の駅、改札口を出て道路へ出ようとした時のこと。今でいうホームレスなのか、春も進んだと言うのに頭から布団をかぶり道路に寝そべっていた人がいた。急いでいた私は彼を蹴ってしまった。それが足で有ったことでホッとしたが、瞬間立ち止まって詫びようとした私の前に、その男はいかつい顔で起き上がった。だが妙に目は笑っている様に私には見えた。彼は言った。
「若造、いい心掛けじゃねぇか、わざと蹴飛して平気で過ぎて行く者も多い、それなのにお前さんはこんな俺の様な男に詫びるのか。俺らなんか人間のクズなんだぜ、クズでも蹴られりゃ痛い。お前さんは若いのにどんな人間の痛みも分かる様だな。お前さんのような若者のいる限り明日の日本は明るい。気にしないでもう行きな」
 それっきり男はまた布団をスッポリ被り顔も言葉も出さなかった。今の言葉は何だったのだろうと考えさせながら又走り始めていた。何を言いたかったのだろう、気に成った。それ迄にない経験だった。間違いでもひと様を蹴ってしまえば、相手が誰であろうと詫びるのは当然ではないか。それをあの男は私の行為が当然ではなかった様に言った。
 当り前を当り前と考え、相手が誰だろうと同じ礼や態度で接しろ、信念のそのままを持ってこれからも生きろ、そう言われている様に感じた。心掛けていたつもりではあったが、改めて教えて貰った様な気がし、有難たかったし、ほのぼのとした気持ちに成った。雑な口調だったが素直な心を忘れるな、は心に沁みた。その後何度もその人の布団の中の姿を見た。軽く頭を下げる気持ちで通った。今会えるものなら言いたい。人生で最も大切な事のヒントを教えてくれて有難う、と。
 あの言葉で私の人生は少し正しい方に修正されたように思うのである。

 
◆「源さん」
たまき じゅんいち様

 「とんでもない事を仕出かしてしまった。」今、後悔しても後の祭りだ。遊ぶ金欲しさに深夜ガソリンスタンドの事務所にガラス戸を割って、今まさに忍び込もうとした所を警邏中のパトに見つかり交番所へしょっぴかれてしまった。連絡を受けた寝耳に水の両親が素っ飛んで来た。交番所へ着くなり有無を言わさずいきなり飛びつきざま父の鉄拳が私の顔面めがけて飛んだ。母はその場に座り込んで只泣きじゃくるばかりだ。「あ〜」ため息と後悔の念が入り交じった鑑別所内の日々が続いた。「面会や」ある日、思いもよらない言葉が私に投げられた。行ってみるとそこには中学時代に机を並べた無二の親友の源さんが陽焼けした、たくましいどんがらを悠然と携えてにこにこしながら突っ立っていた。開口一番、説教が軟らか味を帯びてポンと届いた。「順ちゃん、何、阿呆なことやったんや。なまくら自分に甘っ足れるのもいい加減にしいや。みっともないやないか」親一人子一人の源さんは中学を出ると直ぐに仂きに出た。私の父に内緒で母から連絡を受けた源さんが面会を兼ねて洗濯物やら許される範囲内の物を差し入れて来てくれたのだ。「どや、汗して仂いて手にしたお金で遊ぶようにしょや。悪銭でどんなに楽しんだ所で後味悪いし、心底楽しむことは出来へんで」源さんの言う通り一語一語正面であった。尤もであった。こまめに足を運んでは諭すように親身になって話しかけてくる源さんの友情に私はここを出たら汗してがむしゃら仂きでこの人生の汚点を傷を覆して見せるぞの誓いを立てた。学歴がないばかりに源さんは過酷な労仂をして稼いでいた。港の荷役、道路補修工事と。でもその生き様姿は人生に負けてないぞの自信に溢れていた。追いつき追い越せのファイトが私の体中に漲った。出る事が許された日、両親に許しを乞い源さんと二人で東京を目指した。源さんは将来、クリーニング店を持つため、私は食い物商売で身を立てるため。何するものぞで。


入選(4名)
 
◆「<岐路>で手をさしのべた人」
伊東 静様

 何が機縁で、誰との出会いで自分の人生や運命が大きく舵とりされるかわからない。 私を一夜にして自堕落な若者から向学心に燃える青年へ変貌させてむれた盟友岸栄治君、彼こそその大恩人・終生忘れ得ぬ人である。
 昭和23年夏、私19歳。敗戦直後の世情はまだまだ大混乱が渦まいていた頃だ。 当時父は魚屋を営んでいたが、いずれ三男坊の私に家業を継がせる気でいたらしい。長兄次兄共に戦死を遂げたからだ。しかし私はそれを嫌って魚釣りや蟹獲りに興ずる日々。親の叱咤と懇願をよそに遊び呆けていた。
 ある日、狩野川で泳ぎ土手で甲羅干しをしていると高下駄の若者が「おーい伊東」と傍へ来た。見ると高小の同級生だった岸君である。異様に映ったのは彼の服装だ。旧制高校生の弊衣破帽のいでたち。
 彼はどっかと腰をおろすと定時制高校で学んでいること、将来は大学へ進学し「司法試験に挑戦する」と私の目を丸くさせた。
 そして説得が始まった。「お前もやれ、お前ならやれる!」と熱情こめて煽?った。
「いやというほど勉学にうちこむのは今しかない。機を逃がすな。田園貧家育ちの俺達、共にがんばろうじゃないか」と。
 翌年春、岸君の導きで定時制高校に入学。昼は魚屋、夕方から高校へ。帰宅しても深夜12時まで学習に励んだ4年間。志を同じくする友も複数でき互いに切磋琢磨したことが意欲を底支えし持続させたのだと思う。
 後年、岸君は見事司法試験に合格し人情弁護士として活躍した。一方私も国立大の教育学部を出て教職に就いた。時に28歳、いささかトウのたった若?先生であった。この時の父の言葉、「しがねえ魚屋の子伜が先生だとよ。笑わせやがらァ」。これ、多分に自慢話めいて微苦笑を誘う。生来、無類の子供好きだった私はこれを天職として全うした。
 もしあの時岸君と会わなかったら・・神のひきあわせに対する感謝の念は深い。

 
◆「古の「まこと」を探せ」
小野 一朗様

 ただ、「古い」というだけで、物事を切り捨ててしまうのは、愚かである。たしかに、私たちの日常は、古いものと新しいものとのせめぎ合いの中に在る。歴史を見ても、古いものと新しいものの抗争のアトは、無数に残されている。
 しかし、「新しい」だけが、全て正しく真実とは限らない。ころころ変わることが、ほんとうの新しさかどうか、疑問もある。物事を、次々「新しい」ものに取り替えられるのは、ものがそれだけ豊かだということなのかもしれない。ファッションや携帯に夢中になっている人たちを見ると、所詮、もの珍しさや移り気としか思えない。
 私は、いつまで経っても変わることのないもの、時代や世代を超えていつまでもうけ継がれてゆくもの、それが真の「新しさ」と言えると思う。「不易流行」は永遠の命題でもある。その命題に、明確な指標を示されたのが、本居宣長だったように思っている。
 江戸時代は、人も知る漢学や儒学万能の時代だが、先生は漢意、儒意など「からごころ」を「清く濯ぎ去」て、「やまと魂をかたくする」ことが、国学・古道の本義だと説かれた。仏教や儒学の教えに毒されず、一切のからごころを払拭することで、古の道を探ろうとされたのは、却って革新的ですらある。実に勇気のある孤独な仕事だったと思う。先生は、「古事記」「万葉集」「源氏物語」など古典を究め、やまと心を実証されようとした。 当時、「源氏」などは背徳の書として避難中傷され続けたが、今日私たちは「もののあはれ」の文学として、日本人の心の「まこと」を写すものだと理解している。先生のお陰である。
 また先生は名署「初山踏み」の中で、古典の中にこそ、まことが潜んでいる。途中で投げ出すことなく、学問のまことを貫け。さすれば、きっとその中から、ほんとうの「新しさ」が見えてくると教えられている。

 
◆「古事記を読んで」
渡 登志子様

 古事記を読んでみようと思ったのは、十八歳の時でした。
 それまでにアダムとイブ・エロス・アポロ・バッカスなど西洋の神様の話は、読んでいましたが、日本にも神様の話はあるはずだと思ったからです。
日本の神様といえば、「いなばの白兎」「海山彦山幸彦」の話は幼い日に読んだのですが、もっと詳しく知りたいと思ったのです。
 古事記を読んで一番衝撃的だったのは、「我が身は成り成りて成り余れる処一処あり。
故、この吾が身の成り余れる処をもちて、汝が身の成り合わざる処にさし塞ぎて、国土を生み成さんと以為ふ。生むこといかに」のところでした。 その時、若かったので男女の営みを口にすること、まして文章に書くことは、恥しいことだと思っていました。しかし古事記には、堂々とおおらかにさらりと書かれていたのです。驚きでした。
繰り返し読むうちに、この文は、国を創るということは、お互いに足りないところを補いあっていかなければ成しえないのだという事を後世の人々に知らせる奈良時代の人からのメッセージではないかと思いました。
 今また古事記を読み返してみて、一つ残念で悲しく思うところありました。当時の人々の美意識です。
イザナギはイザナミを追いかけ黄泉の国まで会いに行ったのに、イザナミの醜い姿を見て逃げ帰るところです。愛したイザナミが火を生んだために死んでしまったのです。醜い姿になってしまったからといって逃げ帰るところが残念で悲しいと思いました。
日本の神様は、とても人間的だとも思いました。
 古事記の中でも特に上巻は、国創りの話が壮大なスケールで書かれていて、読みごたえのある書物だと思いました。

 
◆「戯曲 古事記」
布施 圭郎様

 芸術作品とは、ただ単に清く正しく美しくあればいいのではなく、色気や、悪戯や、不潔さなども併せ持って、作者の世の中や人間に対する価値観の非現実的な表現である。例えば、東大寺の四天王像を少し離れてじっくり見た時の、じわじわとこみ上げてくる狂気にも似た感動にこそ、芸術性がある。
 その点で、古事記(上巻)はまさしく芸術作品である。国生みの所作や,スサノオの乱暴ぶり、国譲りの浜での力比べの描写などに、人間の内面にある欲望や残虐性、諧謔味など、1300年も昔から何も変わってはいないことを思い知らされるのである。科学、技術が進歩したと言うが、人間の美的感覚や創造力は衰退しているのではないだろうか。生まれ育った出雲という土地柄もあって、古文体で読むと神楽のお囃子が聞こえてくるようである。漢文体では難解だが、現代文体ではお囃子が聞こえず、面白くない。
 とっておきの場面が、天の岩戸の前で天照大神を何とか引きずり出そうと作戦を立てて、あの手この手を繰り出すところである。作戦を立てる神、ほとも露わに踊る神、その踊りを見て喜び大騒ぎする神々、岩戸を開ける神。天照大神がお隠れになったのは、日食を神話にしたものだと単純に考えるのもいいかも知れないが、思金の神の単純な発想、それを素直に聞き踊り狂う天宇受賣の命、おそらくは作戦の目的を忘れて大騒ぎする神々、息をひそめて岩戸の影に隠れて待つ手力男の命、外が騒々しいのが気になってついつい覗き見てしまう天照大神。人間が崇め、畏れる神々が、なんとも純朴な存在で描かれている。愉快であり、大らかであり、読む者の思考の背景を空の色に染めていくような穏やかだが強い光を放ち続ける。日常の煩わしさもなんとちっぽけなことか、と思えてくる。一研究材料として読むのもいいかも知れない。が、それより、小説や映画を何度も鑑賞するように、一作品として、繰り返し読んでいきたい。


ジュニア賞(3名)
 
◆「夢への一歩」
矢田 めぐみ様

 わたしには将来を叶えたいと思っている大きな夢があります。それは、東京ディズニーランドのキャストになることです。
 この夢を抱くようになったのは中学1年生のときでした。以前から何度もディズニーリゾートには訪れていたのですが、中学生になってから、ディズニーリゾートのキャストさんのようにたくさんの人を笑顔にして夢や希望を与えられるようになりたいと思い、わたしの夢は始まりました。
 中学二年生のときにとても大好きだった担任の先生にこの夢を打ち明けると先生は、「お前の性格にすごく合っている仕事だよ。先生の知り合いにディズニーのグッズ開発をしている人がいるんだ。」
 そう言って、先生はその知り合いの方のお話をしてくれました。それが私の人生を変えた出会いでした。その方は、とても感情性が豊かでまさにディズニーにぴったりというような方だと聞きました。それを聞いたとき、
「自分はまだまだディズニーリゾートの人間として働くには遠い人間だな。」
 と改めて実感させられました。ただ好きなだけで入れる世界ではないのです。しかし先生はそんなわたしに、
「お前はその人に性格が似ているよ。同じ様な雰囲気がある。だから絶対にその夢を叶えないとだめだぞ。お前が叶えないともったいない。」
 と言ってくれました。そのときわたしは、ほんの少しですが、ディズニーに近づけた気がしました。そしてわたしが中学三年生のとき、わたしはその方にお手紙を書かせていただきました。自分のディズニーに対する思いをすべて書いたら、そのお返事に、「あなたのような熱い想いを持った人と一緒にお仕事できるのを楽しみにしてます。がんばってください。」
と書かれていました。そのとき私はもう一歩ディズニーに近づけた気がします。

 
◆「出会い」
文山 和樹様

 私は、生まれたころから心臓が悪く最初の1歳から3歳までずっと病院で過していました。4歳になってやっと病院から家に移れましたがそれでも心臓の心音を計る機械をつけて生活していました。病院には週2回は行き、超音波やレントゲンといった検査を毎回繰り返していました。小学生になって心音の機械ははずれましたがやはり病院にはずっとかよっていました。小学二年になり、プールの授業がありました。その授業で水の中に入った時に心臓が麻痺してしまいました。私はそこで気を失ってしまって、気がついたら、大学病院のベッドの上でした。それからまた病院での生活が1ヶ月続きました。入院生活はとても小さかった自分には苦痛でした。毎朝起きたら15時頃までずっと検査をしていました。その後も消灯時間までずっと暇でテレビをみるか、親が持ってきてくれた漫画を読んでいるかでとてもつまらなかったです。しかし、入院生活が1週間続いた時、隣のベッドに同じ年の男の子が入ってきました。名前は本田裕太と言って裕太も心臓が悪く1週間後に手術を控えていました。同じところということもあってすぐに仲良くなりました。裕太の手術はかなり時間がかかったけれどもなんとか成功しました。終わったあと怖くなかったのかと聞いた所、「やりたいことが沢山あるからそのためなら余裕だった。」といっていました。裕太の強気な発言をきいたおかげで自分も手術を受けることにしました。しかし、手術日が近づくにつれてやはり恐くなってきましたが、裕太には負けないと思いがんばりました。そして、自分の手術も成功し今では心臓も治り自分の好きなスポーツもできています。あの時裕太に会わなければ迷って手術を受けずにもっと時間がかかったかもしれないし危なかったかもしれません。   彼と出会うことができて本当によかったです。

 
◆「強く生きること」
鈴木 沙英様

 私が中学生の時、ある病気の友達がいました。彼女は思い病気をわずらっており、二年生の時には、治療のために学校を休み、教室に姿を見せることはあまりありませんでした。
  中学三年生の時、私は初めて、彼女と同じクラスになりました。最初はよく教室に来て、中の良い友達と楽しそうに話す姿が見られました。私はあまり、彼女と話した事はありませんでしたが、それでも彼女が優しい人ということは分かりました。薬の副作用で顔はむくんで、治療のために使っていなかった筋肉は落ち、階段を上がるのもやっとの状態の彼女は、それでも私たちに笑顔を見せていました。しかしその時私は、彼女の病気が白血病などというひどいものだとは知らなかったのです。
 二学期へと突入し、彼女が学校に姿を見せることが少なくなりました。心配はしていましたが、事の重大さがよく分からず、おそらくその内なおる病気なのだろうと、勝手に考えてしまっていました。しかし、私は間違えていました。
 卒業式も終え、入学式も迫っていたある夜、私の元に一本の電話がありました。その内容を聞いて、私は受話器を落としそうになりました。それは、病の彼女が亡くなったというものでした。お通夜はその翌日に行われました。あの時見た、安らかに眠る彼女の顔は一生忘れられません。私の近くにいた、彼女の親友だった女の子は、喧嘩したのに誤れなかったと見ているこちら側が痛くなるほどに泣いていました。私も、泣きました。
 私は彼女との出会いを通じて、命の大切さについて学びました。行きたくても生きれず、たったの十五歳で命を落としてしまう人もいる、この事実を間近で思い知らされ、私は生きる事をやめてしまうことを考えず、生きる事をやめないことだけを考えて、彼女の分まで強く、明るく、私の人生を進んでいこうと決意できたのです。


過去の入賞作品はこちらから
家族の絆“きずな”入賞作品発表!
私の人生を変えた“出会い”入賞作品発表!


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